数学語圏----数学の言葉から創作の階梯へ
志賀弘典 著
四六判・224頁・2300円+税
数学用語、たとえば「自明」という言葉、が広く深い「数学語圏」を開示する。
パスカルに始まって日本的情緒に至る創作者の長い階梯が展開される。人文・芸術系の数学!
目次
数学の顔
1 数学は美人か
2『パンセ』とクリスチーナ
3 数学は野球になれるか
4 付記:数学と自然科学との相違
5 さらに付記:徒然草第四十段
自明
1 自明な手続き
2 自明な創作
計算と証明
1 虚構のリアリティー
2 直感、計算、理由
3 個体発生は系統発生を繰り返す
4 森有正の「経験」
5 数学の実在性をめぐる対論:対談集『考える物質』から
代数、幾何、解析そして算術
1 数学は数からつくられる
2 算術はえらい
3 岡潔のとらえた、解析、代数、算術
4 解析的なもの、代数的なもの、算術的なもの
5 プラトンの『国家』における教育論
職人芸と数学
特異点
1 特異という言葉
2 数学に現れる特異点
関数の特異点
代数曲線の特異点
3 リーマンと特異点
リーマン面のモジュライ
リーマンのP函数
アーベル積分論
4 現実の世界での特異性の意味
日常の世界とリーマン的視点
伝記文学
アウトサイダー
5 ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』と特異性
評価
1 評価とは
2 数学の手法としての“評価”
実例1:評価によって収束を導く実例
実例2:自然対数底eの超越性
3 評価への原理的な疑問
4 悪人芸術家カラヴァッジョ
線形性
1 ヴェルサイユと修学院離宮
2 パスカルの定理
3 パスカルの定理の文脈
4 線形性の背景
関係
1 方程式と言葉
2 おとうさん
3 数学における関係:ホモロジーとコホモロジー
離散と連続
1 離散的世界像の登場
2 数学における離散的なもの
推論
1 三手の読み
2 付説:『方法序説』へのコメント
不変量
1 三笠の山に出でる月も
2 数学における不変性
3 楕円曲線の不変量
4 マドレーヌの記憶
予定調和
小芸術家たち
1 パルミジャニーノ
2 中島敦『名人伝』
3 マルグリット・ユルスナール『老絵師の行方』
4 アナトール・フランスの『タイース』
5 藤原雅経
6 オットテール・ル・ロマン
7 冷泉為恭
8 向井去来『去来抄』
老師:岡潔
1 岡潔とのかかわり
2 岡潔の数学
3 要諦集
4 西野利雄師
岡潔と芭蕉の連句
参考文献
人名索引
はじめに
私はもちろん日本が大好きだが、イタリア語の通じる地域、
イタリア語圏を旅する楽しさも捨てがたいと思っている。一方、
頭の中では数学の言葉が支配する数学語圏をいつも訪ね歩いて
いる。
数学の概念や思考法は、多くの場合世間でのものの考え方と共
通点を持っていて、数学の言葉はそれを厳密に運用したり、意味
を先鋭化したりしてできている。民族や文化によらない人類共通
の基本概念や認識パターンは、ヒトの脳にデフォルトの機能
(初期搭載装備)として組み込まれているものとも考えられる。
数学が、その機能を拡張してどのように高度な思考装置を作ってい
るのかを考察してみようと考えた。このような対照作業は、難
解な現代数学を思考方法に着目して垣間見ることをも可能にし
てくれるのではないかと思う。
60歳を過ぎて“数学について”書くことになったが、イギリス
の高名な数学者ハーディが興味深い見解を述べている。
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専門の数学者にとって、数学について書くというのは憂鬱な
経験である。数学者の役割とは、何かを為すこと、即ち新し
い定理を証明し、数学に新たなものをつけ加えることであり、
自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることでは
ない。
(中略)
だから、もし私が数学をするのではなく、数学について書く
ということになると、これは私の弱みの告白であり、若く精
力的な数学者からは軽蔑されたり、憐れみを懸けられたりす
るのは当然であろう。私が数学について書く理由は、60歳を
越えた他の数学者と同様に、自分の本来の仕事で業績を挙げ
るための新鮮な頭脳も精力も、また忍耐ももはやないからで
ある。
(G.H.ハーディ、C.P.スノー『ある数学者の生涯と弁明』p.2)
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しかし、私は60代で自分の創作の最盛期を迎えたい。そのために、
さまざまな手助けを数学の外部からも借りて数学を続けるが、
鑑(かがみ)とする小芸術家群にも触れた。だが、最終的に自分の
数学に向かう姿勢は数学者岡潔老師を大きな拠り所としているの
で、最後の項では、研究者の要諦として自分の内に取り込んだ
岡老師の世界を描くこととした。このような実存的な接近以外に
岡の実像に迫る道はないというのが私の考えである。
この本を全体としてみると、一人の小数学者が創作へ向かった
階梯を語っている形になっているが、専門外の人が書斎を訪ねて
話を聞いたつもりになれば、それなりに数学への案内として楽し
んでもらえるかと思う。
2009年2月 著者
本書では多くの書物からの引用を行った。自分の思考を古人の知恵
に接続することによって普遍的な意味を持たせたかったからである。
引用部分は前後を横線で区切り、出典を明示した。また、本格的な
数学の議論はなるべく控えるようにしたが、もともと数学の世界を
数学外の読者にも伝えることを目的としているので、数式を伴う
最低限の数学的議論を含んでいる。この部分は縦の傍線で示し、
これを読み飛ばしても文脈の整合性が保たれるように工夫した。
以上、読者の了解を希望する。