問題・予想・原理の数学3 Schubert多項式とその仲間たち

前野俊昭 著/加藤文元・野海正俊編集
A5判・並製・200頁・定価2500円+税

対称群と多項式の組合せ論をテーマとし, Schubert多項式と呼ばれる特別な多項式の族を紹介する.

まえがき

本書のテーマは対称群と多項式の組合せ論であり,Schubert多項式と呼ばれる特別な多項式の族を紹介することを目的としている. 一般に組合せ論とは有限集合に入る構造を研究する分野であるが,従来数学の中ではやや孤立した分野と見なされてきた観があり,たとえば大学の数学科の課程でも中心的なテーマとしては組み込まれていない.むしろ情報科学や最適化問題に関わる工学系の諸学科で扱われることが多いのではないだろうか.これには二つ理由があるように思われる.
 一つには,組合せ的な問題が時として数学的な深みに欠ける印象を与えることである.組合せ論が有限集合の研究である以上,想定される対象は有限個に限られるので,それらを全てしらみ潰しに列挙してしまえば原理的には常に問題が解決できるはずである.だとすれば,そこにわざわざ数学的な理論は必要ないのではないか,という話になる.しかし逆説的なことに,計算機の進歩はかえって有限的な構造の深みを明らかにしつつあるように見受けられる.計算機の活用はむしろ組合せ爆発の困難を意識させるきっかけとなり,原理的な解決可能性が必ずしも実際の解決を保証しないということが明白になった.さらに,人間の手計算では届かない領域にまで様々なデータが蓄積されることにより,新たに興味深い有限構造が掘り起こされつつある.
 もう一つの理由は,組合せ論が数学の他の諸分野との有機的な繋がりを欠くように思われやすいということである.数学の世界で面白いトピックは,やはり様々な分野が交錯する話題や,一見無関係に見える対象が不思議な繋がりを持つような現象だろう.組合せ論に現れる諸問題には,その観点からすると他分野との繋がりが心許ないケースがあるのも確かで,それが孤立した話題を扱っているかのような印象を与えているのかも知れない.R. Stanleyの有名な教科書“Enumerative Combinatorics”[49]に寄せたはしがきでG.-C. Rotaは「組合せ論は理論がなくて定理ばかりたくさんあるという悪評を受けて来た」と書いている.一方で,代数学や幾何学の諸分野でも多彩な有限構造が現れ,それらがしばしば決定的な役割を果たすことも多い.さらに,近年のGr¨obner基底の理論や離散幾何の発展は古典的な数学の諸分野へ組合せ的構造を積極的に取り込むことを促しているようにも感じられる.これらの状況を見ると,今後数学の世界で組合せ論の果たす役割はより大きくなるものと期待される.
 本書で扱うテーマは,組合せ論全体から見るとかなり限られた一つの話題に過ぎないが,もともと群論や多項式の理論で自然に現れる組合せ構造であるため,様々な分野が交錯する非常に幸運なケースを扱っているといえるだろう.実際にSchubert多項式に関わりを持つ分野として,群論,可換代数,非可換代数,表現論,数え上げ幾何,等質空間の幾何などが挙げられる.特に,数え上げ幾何はSchubert多項式を導入する動機となった諸問題やアイデアの源泉ともいえる分野であり,Schubert多項式という名称も数え上げ幾何の創始者の一人であるH. Schubert(1848-1911)にちなんで名付けられている.
 Schubert多項式は1982年にA. LascouxとM. -P. Sch¨utzenberger[35]により導入された比較的若い概念である.一般的な話として,20世紀後半に導入された数学的概念を理解するためには膨大な予備知識が必要とされ,学部レベルでは扱えないことも多い.Schubert多項式の素晴らしい点の一つは,若干の計算方法を教えれば高校生にも理解可能なことで,比較的少ない予備知識で最先端の研究に触れることも可能である.こうしたことからSchubert多項式の話題は非常に教育的な題材ともいえるだろう.本書で仮定する予備知識は,概ね数学科3年ぐらいまでで習う初歩の代数の知識のみである.後半の章では,やや進んだ幾何の知識に言及する.
 ここで,Schubert多項式の意味合い,位置付けについて大雑把にまとめておきたい.Schubert多項式とは,次のような意味を持つ多項式の族である.
 (1)旗多様体のコホモロジー環の自然な線型基底であり,Schubert類を表す.
 (2)Schur多項式の非対称な一般化である.
 (3)多項式環や余不変式代数の特別な意味合いを持つ線型基底である.
 (4)NilCoxeter代数と呼ばれる代数の自然な線型基底の双対基底である.
 (5)対称群のBruhat順序の情報を反映した多項式の族である.
 (1)は幾何的な意味合いであり,(2),(3),(4)は代数的,(5)は組合せ的な説明である.詳細については本書の内容を見てもらいたいが,本書では上記項目を大体逆順に説明していくことになる.また,Schubert多項式には様々な変種が構成されているが,その「仲間たち」として本書で扱われるのは,二重Schubert多項式,(二重)Grothendieck多項式,量子(二重)Schubert多項式である.これら以外にもSchubert多項式の仲間として構成されている多項式たちが数多く存在するが,それらはまさに最新の研究の興味の対象である.
 第1章から第3章までは,Schubert多項式を導入するための準備である.
Schubert多項式の定義に直接必要となる概念として特に重要なのは差分商作用素である.また,対称群上のBruhat順序もSchubert多項式の諸性質を統制するものとして頻繁に登場することになる.第4章でSchubert多項式の定義を与え,その基本的性質を調べる.Monk公式およびSchur多項式との関係に関する結果が一つの目標地点だと考えてもらってよい.第5章ではSchubert多項式が対称群の余不変式代数の基底を与えていることを示す.余不変式代数は旗多様体のコホモロジー環と同型な環であり,本書のもう一つの中心テーマである.第6章,第7章ではSchubert多項式の変種として二重Schubert多項式,(二重)Grothendieck多項式を扱う.こうした一般化を通じて初めて見えてくるようなSchubert多項式の性質もあるのが面白い点である.二重Schubert多項式はSchubert多項式の「相対版」,Grothendieck多項式は「K理論版」と解釈できるようなものである.第8章ではFomin-Kirillov二次代数と呼ばれる非可換代数について紹介する.Fomin-Kirillov二次代数はMonk公式の構造を抽象化して得られるような代数で,余不変式代数とnilCoxeter代数を共にその部分代数として含んでいる.この代数を用いるとPieri公式が扱いやすくなり,量子Schubert多項式を取り扱う際にも役に立つ.第9章以降は旗多様体の幾何に関する内容を扱い,Schubert多項式の幾何学的な意味を説明する.多様体上のベクトル束とその特性類,K群などは,多様体論の初歩の講義ではあまり扱われない題材だと思うので,これらについては適宜代数的トポロジーの教科書を参照してもらいたい.最後の章ではSchubert多項式の量子変形である量子Schubert多項式を扱っている.90年代初め,位相的場の理論の枠組みで多様体のコホモロジー環を変形した量子コホモロジー環の概念が導入された.旗多様体に対してもその量子コホモロジー環を考えることができ,それに応じてSchubert多項式を自然に変形したものが量子Schubert多項式である.これは90年代中頃に導入された比較的新しい話題である.
 本書で扱うSchubert多項式に関する結果には基本的に全て証明を付けてある.Schubert多項式の変種たちに関する結果で,Schubert多項式と同様の方針で証明できる場合や技術的に煩雑な点が多い場合には証明を割愛したものもある.また第9章以降で用いられる幾何的な知識に関しては詳細を省略したり,結果の引用のみで済ませた点も多い.それらに関しては巻末の参考文献を参照されたい.また,本書ではYoung図形の組合せ論,対称群および一般線型群の表現論,一般の有限Coxeter群に関する話題も十分には説明できなかったが,これらに関しては優れた教科書が数多く出版されている.
 本書の執筆に際しては,多くの方々からの御助力を頂いた.西山享氏には準備稿に目を通して頂き,誤りの指摘も含め詳細なコメントを頂戴した.和地輝仁氏からは一部図表のファイルを提供して頂いた.本シリーズ編者の野海正俊氏,加藤文元氏からも御意見,御指摘を頂いた.改めて感謝の意を表したい.また,遅い原稿を気長に待って頂いた数学書房の川端政晴氏にも御礼申し上げたい. 記号について:本書ではNは自然数の集合を表し,0を含むものとする.正整数の集合はZ>0と書くことにする.Zは有理整数環,Q,R,Cはそれぞれ有理数体,実数体,複素数体を表すものとする.変数x1,...,xnに関する自然数係数の多項式の集合はN[x1,...,xn]のように表す.また,有理整数環Z上の環Rに対し,体K上へのRの係数拡大R?ZKはRKとも表すことにする.

 2015年10月
                                著者



目次

第1章 対称群の基礎事項
 1.1 対称群
 1.2 ダイアグラム
 1.3 Bruhat順序
 1.4 Grassmann置換
 1.5 鏡映群としての対称群

第2章 対称多項式
 2.1 対称式と交代式
 2.2 Young図形
 2.3 様々な対称式
  2.3.1 基本対称式
  2.3.2 ベキ和
  2.3.3 完全対称式
  2.3.4 単項式対称式
  2.3.5 Newton公式
 2.4 Schur多項式
 2.5 対称多項式環の基底
 2.6 Littlewood-Richardson環
  2.6.1 対称群の既約表現
  2.6.2 一般線型群の既約表現

第3章 NilCoxeter代数
 3.1 NilCoxeter代数の定義
 3.2 NilCoxeter代数での関係式
 3.3 差分商作用素

第4章 Schubert多項式
 4.1 Schubert多項式の定義
 4.2 Schubert多項式の基本性質
 4.3 Monk公式
 4.4 Schubert多項式とSchur多項式

第5章 余不変式代数
 5.1 余不変式代数
 5.2 余不変式代数の基底
 5.3 調和多項式
 5.4 放物型部分群による不変部分環

第6章 二重Schubert多項式
 6.1 二重Schubert多項式の定義
 6.2 NilCoxeter代数を用いた構成
 6.3 二重Schubert多項式の性質
 6.4 補間公式
 6.5 Monk公式
 6.6 Stanley予想とMacdonald予想
  6.6.1 Stanley予想
  6.6.2 Macdonald予想

第7章 Grothendieck多項式
 7.1 Hecke代数の多項式環への作用
 7.2 Grothendieck多項式と二重Grothendieck多項式の定義
 7.3 0-Hecke代数を用いた構成
 7.4 Grothendieck多項式の基本性質
 7.5 Cauchy公式
 7.6 Monk型公式

第8章 Fomin-Kirillov二次代数
 8.1 Fomin-Kirillov二次代数の定義
 8.2 Enの表現
  8.2.1 Calogero-Moser表現
  8.2.2 Bruhat表現
  8.2.3 EnのEn自身への作用1
  8.2.4 EnのEn自身への作用2
 8.3 NilCoxeter代数
 8.4 Dunkl元

第9章 旗多様体
 9.1 旗多様体
 9.2 Schubert多様体
 9.3 Grassmann多様体
  9.3.1 Grassmann多様体の定義
  9.3.2 Grassmann多様体のSchubert胞体

第10章 旗多様体のコホモロジー環
 10.1 旗多様体のコホモロジー環と余不変式代数
 10.2 Schubert多項式とSchubert類
 10.3 Borel-Mooreホモロジー
 10.4 旗多様体束のコホモロジー環と二重Schubert多項式
 10.5 Grassmann多様体のコホモロジー環
 10.6 旗多様体のK環

第11章 量子Schubert多項式
 11.1 旗多様体の量子コホモロジー環
 11.2 量子化写像
 11.3 量子Schubert多項式
 11.4 量子二重Schubert多項式
 11.5 Fomin-Kirillov二次代数の量子変形
 11.6 Grassmann多様体の量子コホモロジー環

参考文献について
参考文献